38分間の「史上最短の戦争」衝撃の一部始終とは!? 陰謀に満ちた展開に唖然!

 いまも戦闘が続くイスラエル・パレスチナ紛争は75年、ロシアのウクライナ侵攻は「永遠の戦争」の様相を呈してきた。長く続く戦争は現在進行しているものだけでも多く存在するが、一方で超短時間で終結した戦争はどれぐらい短かったのだろうか?

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※ こちらの記事は2022年6月4日の記事を再掲しています。

 まだまだ予断を許さないウクライナ情勢だが、ロシア側は侵攻当初、せいぜい1週間程度で首都が陥落すると見込んでいたようだ。そうした思惑に反して今も消し止まない戦火だが、では逆に人類史上最も短い戦争はどのくらいのスパンで終戦に到ったのだろうか。驚くべきことに、それはなんと開戦から38分後であった――。

強まるイギリスの影響力の中でのスルタン交代劇

 人類の歴史の中で記録されている最も短い戦争は、1896年8月27日の午前9時に開戦の火蓋が切られた。そして38分後に500人の死傷者を出して終戦を迎えることになったのだ。ギネスブックにも「史上最短の戦争」として記録されているイギリスとザンジバル保護国の間で勃発したイギリス・ザンジバル戦争(Anglo-Zanzibar War)である。

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「Ancient Origins」の記事より

 それは1890年にイギリスとドイツの間で締結された「ヘルゴランド=ザンジバル条約」に端を発する。この条約によってドイツはザンジバル(現在のタンザニアの島しょ部)における権益をイギリスに譲渡し、以後イギリス政府がザンジバルにおける影響力を急激に高めたのだ。

 イギリスはザンジバルに対して奴隷制の廃止を計画していたが、これが裕福な商人と支配階級を怒らせ、当時のザンジバルの君主(スルタン)であったサイード・アリ・イブンはイギリスの命令に頑なに抵抗した。しかし、サイード・アリ・イブンが1893年に亡くなったことでイギリスにチャンスが到来。親イギリスのハマド・ビン・スワイニをスルタンに配置して、自国の影響力をさらに高めたのである。

 しかし3年後の1896年8月25日、ハマドは宮殿で突然死亡する。これは反イギリス派による毒殺であることが疑われた。そして死去からわずか数時間後に後継者としてハリド・ビン・バルガシュが即位し、反イギリス派のスルタンとして宮殿に移り住んだのだ。

 ハマドが死亡した時点で、イギリス当局は自国の利益に好都合であったハムド・ビン・ムハメドをスルタンにしたいと考えていた。1886年に締結された条約によれば、スルタンの即位はイギリス領事が認めた候補者であることが条件になっていたのである。

 しかし、速やかに宮殿入りしてスルタンになったハリドはその条件を満たしていなかった。イギリスはこれを「開戦事由」とみなし、ハリドに軍を解散させ王宮を去るようと最後通牒を突きつけた。これに対し、ハリドは親衛隊を集結させ王宮に立てこもったのであった。

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ハリド・ビン・バルガシュ 「Ancient Origins」の記事より

砲撃命令から38分後に終戦

 ハリドはこの地域でのヨーロッパの干渉に対する抵抗の象徴であり、王宮親衛隊の兵士と、支持者の約3000人が宮殿に集結して徹底抗戦を誓った。

 一方、イギリスはハリドに対して彼の従兄弟であるハムド・ビン・ムハメドに王位を譲るよう命じるとともに、宗主国の実力を証明するため、兵士900人の部隊を編成。宮殿近くの港にイギリス海軍艦5隻からなる艦隊を配置した。

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画像は「Wikipedia」より

 イギリス海軍のハリー・ローソン少将は、ハリドに翌日の午前9時までに宮殿を明け渡して武器を放棄するように命じ、さもないと戦争になると告げた。しかしハリドは、これが口だけの虚仮威しであるとして通告を無視した。

 そして1896年8月27日9時、ローソン少将は艦隊に宮殿への砲撃を命じた。宮殿はすぐに炎に包まれ、わずか38分で戦争は終結したのである。イギリス軍は宮殿内の軍事拠点をいとも簡単に破壊し、抗戦する術を完全に奪い、このわずかな時間の間にハリド側は500人の死傷者を出すことになった。一方、イギリス側は1名の負傷者を出すに留まった。

 そしてこの日の午後、イギリスは彼らが選んだ支配者、ハモウド・ビン・ムハメッドを王位につけたのである。

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画像は「Wikipedia」より

 瞬く間に敗軍の将となったハリドは宮殿を脱出し、ドイツ領事館に亡命。ドイツはハリドが国を去るのに協力したが、彼は第一次世界大戦中の1916年にイギリスによって捕らえられた。

 自称スルタンの地位を放棄した後、ハリドはモンバサに住むことを許可され、1927年にそこで亡くなった。ちなみに奴隷制は戦争の翌年の1897年にザンジバルで廃止されている。

 大量破壊兵器のない時代の「史上最短の戦争」でも500人の犠牲者が出るのは戦争の戦争たる所以だろう。目下の戦争の一刻も早い解決を望むばかりだ。

参考:「Ancient Origins」ほか

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文=仲田しんじ

場末の酒場の片隅を好む都会の孤独な思索者でフリーライター。
興味本位で考察と執筆の範囲を拡大中。
ツイッター @nakata66shinji

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