※最終ページに、紛争地での刺激的な写真を掲載しております。
昨年11月、東京・東向島のReminders Photography Strongholdで、「悔恨への執念」というタイトルの写真展が開かれた。作家は後藤勝さん。南米やアジアを中心に紛争、内戦地域の最前線で撮り続けてきたフォトグラファーだ。
「悔恨への執念」は、一言でいえば、後藤さんの半生を振り返った写真展だ。しかし、戦場での写真は、その一要素ではあってもテーマの柱ではない。
ギャラリーの壁は4つに仕切られ、①余命宣告を受けた母親が荼毘に付されるまでを撮った写真、②失踪したまま不審死を遂げた父親の遺品を撮った写真、③家を出て以降世界中の紛争・内戦地帯を渡り歩いた頃の写真や資料をまとめた作品、④母親の死後に発見された家族のアルバムを元にした作品、とそれぞれのコーナーに分かれていた。加えて、フロア中央のテーブルには「ダミーブック」と呼ばれる作家本人が手作りした写真集のいくつものヴァージョンが、制作の軌跡を再現するように展示されていた。
「僕自身がこれまで避けてきたことや後悔しながらもずっと目を塞いできて、墓場まで持っていこうと考えていた事物たちの集大成」と作家自身が語る「悔恨への執念」が生まれた経緯、後藤さんのこれまで、「個人」「家族」そして「写真」という三者の関わりについて話を聞いた。そこから浮かび上がってきたのは後藤勝という作家と写真との因縁、写真を縦糸にした、ある家族の数奇な物語だった。
◾︎30年間離れていた母親の死にゆく過程を撮る
ーー「悔恨への執念」を作品化することになったきっかけは?
後藤勝さん(以下、後藤) 余命宣言を受けた母を撮り始めたことです。2011年の震災の時期ですね。あの日はちょうど、母は手術のために入院していて、病室がすごく揺れた記憶があります。実家は名古屋なので被害はありませんでしたが。
ーーなぜお母さんを撮ろうと?
後藤 趣味でフラダンスをしていた母に「この綺麗な衣装を着た写真を撮ってくれないか?」と頼まれたんです。撮影の数か月後に発表会の予定があったのですが、出演できないことはその時点で本人もわかっていて。そういう申し出をされるのは初めてだったし予想もしていなかったからびっくりしました。衣装を着て病室で踊る母を撮る時まで、母の写真を撮影したことはなかったし、撮ろうという気持ちもありませんでした。推測ですが、あの時母は僕が写真家であることを初めて認めてくれたのだと思います。
ーー写真の仕事をしていることは知っていたのでしょう?
後藤 知ってはいても認めていなかった。フリーの写真家は不安定だから心配だったんですね。戦場を撮っていたことは一切話していないから知らなかったはずなので、おもに経済的な面で認められなかったのだと思います。
ーーフラダンスの撮影以降、亡くなるまでの過程を撮り続けていますね。辛くありませんでしたか?
後藤 逆に「写真を撮り行かなきゃ」と思えば気持ちが楽になったから、写真を盾にしていた部分はあります。撮っていくうちに母を写真に残したいという気持ちも芽生えました。17歳で実家を出て以来30年間離れていましたからね。手紙のやり取りはあっても母の姿の記憶は消えてしまっていました。
ーー大きな欠落ですね。
後藤 タイトル通り、後悔をしながらも撮影を通して母と対話していた感じです。
ーーお母さんをバックに自撮りした写真が気になりました。「死」という目の前の現実を受け入れなければならない違いの戸惑いと諦めが表れている感じがして。どういう気持ちで撮ったのですか?
後藤 30年間一緒にいませんでしたからね、2人で撮りたいという気持ちが多少はあったと思います。病気が進行してほとんど話せなくなってきた頃だったから、カメラがなければ間が持たなかったという事情もありました。
ーー荼毘に付される様子を写した写真もあります。よく最期まで撮れましたね。
後藤 東日本大震災後に、昔繋がりのあった海外のメディアから「被災地を取材してほしい」という依頼がいくつも来たんです。でも、中途半端に母を看取ることはできないと思って一切を断りました。逆に、またそこで執着というか、それまでの経験から母の最期を写真に撮ることになるという予感めいたものはあったんです。戦場で写真を撮っていた時には撃たれた兵士が息を引き取るまで撮り続けるのが僕の仕事でしたからね。最終的に、最後まで看取ることができて写真も撮れた。もしあの時撮らなかったら後悔していたと思います。
ーー「後悔していた」とは、子供としてというより写真家としてということでしょうか?
後藤 そのあたりは微妙です。カメラがあったから母の近くにいられたというのはある。「息子として純粋に母を看取りたい」という気持ちと「写真家として母の死の瞬間を記録したい」という気持ちとの間をぐるぐる回っていた感じです。