京都大学に封印された「人喰い」地蔵の怪! 発見者一族全員死亡、大学関係者も次々と怪死…猟奇事件とのヤバい関係も!?

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――そもそも地蔵は、幼くして亡くなった子供を救済するものですよね?

 その通りです。中世以降、地蔵は子どもと旅人の守り神とされてきました。親より先に亡くなり、賽の河原で苦しむ子供を救う菩薩です。たとえば、京都の「地蔵盆」は町中の小さな祠を近隣家庭がお祀りし、子どもの無病息災と成長を願います。しかし、今回の調査で京都には「人喰い地蔵」があり、その影響で様々な事件が起きている可能性が明らかになりました。

 実は京都大学の構内に謎の地蔵がいくつもあるんです。調査の結果、これらは大学造成の際に出土し、祀られることで現在まで残ったものでした。一説では、大阪城建築の際に作られ、合戦で多くの血を吸って1615年以後に京都で捨てられたともいわれます。

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京大・理学部「50柱・祟り地蔵」

 怪談蒐集の大家・田中貢太郎によれば、大正八年(1919年)に理学部敷地内で50柱もの地蔵が出土し、次々と人が死んで祟りだと騒ぎになり、結局、死者6名、負傷者3名を数えました。大学文書館で調べても、たしかに在任中に死んだ教授の名を確認できました。現場の地蔵を数えたのですが、なぜか41柱しかありません。死傷者9名と消えた地蔵の数が合致します。これは何を意味しているのでしょうか。

――京大病院には、人々の回復を願う「全快地蔵」もありますよね?

(神ノ國ヲ)たしかに東大路沿いのバス亭に、千羽鶴で飾られた地蔵が鎮座しています。しかし、実は、この地蔵が問題かもしれません。

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京大病院「全快地蔵」

 元々、明治三十二年(1899年)に、現在の京大病院や医学部の敷地は農地で、そこから地蔵が出土したそうです。運び出した農家が10年後には一族丸々不幸な目にあって死に絶え、これは祟りだ、と元あった場所に安置した。結局、大正十二年(1923年)に、ある人が念仏を唱えながら、安置場所を整えたことで祟りが終息し、その地蔵は樹木の根に呑みこまれたと言われています。

 実は、驚くべきことに、この地蔵が現存します。iPS細胞を扱うような最先端の大学病院の敷地内にひっそりと複数の地蔵が祀られています。境内も清浄に保たれており、一体誰が管理しているのかは分かりません。

 さらに調査の結果、戦慄の事実が判明しました。東大路を挟んだ向かいには、崇徳院(崇徳上皇)を祀り鎮めるための地蔵がある聖護院があります。崇徳院は、平将門、菅原道真に並ぶ怨霊化した存在です。1156年「保元の乱」に敗北し、世のすべてを呪って死んだ崇徳院の祟りを恐れた都人が慰霊のために地蔵尊を造ったと言われています。

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京大・医学部「祟り地蔵」

 この崇徳院「すとくいん」が訛って聖護院の「ひとくい地蔵さん」と人々に親しまれています。しかし、おそらく、この地蔵こそ、京大病院造成の際に出土したものを聖護院に移したものなのです。つまり、京大病院と医学部に残る謎の地蔵は、聖護院に移転されなかった「人喰い地蔵」です。

 「全快地蔵」についても、病院や医局に問い合わせて調べましたが由来も起源も不明だそうです。すなわち、いつのまにか「人喰い地蔵」が「全快地蔵」として、病院に鎮座しているのです。本当に全快地蔵は、人々の恢復を願って鎮座しているのでしょうか。むしろ「人喰い」なのではないかと思わずにはいられません。

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