コンタクトレンズが誕生した裏歴史を亜留間次郎が解説! 差別、偏見、魔女狩り、天皇、シャーロックホームズ…!
■コンタクトレンズとシャーロックホームズ
そこで、スットコドイツな変態技術で「目の中に入れる、外から見えない眼鏡」という珍品を作ったのがドイツのアドルフ・ガストン・ユーゲン・フィック博士です。1888年3月に眼科の医学雑誌「ArchivfürAugenheilkunde」に「Eine kontactbrille」という論文を発表しました。
論文の題名だったドイツ語で接触眼鏡を意味する「kontactbrille」の英語名がコンタクトレンズです。あっというまに同じものを作る人が続出して、欧州全土でコンタクトレンズブームが起きました。
人間の目のレンズも細胞で出来ていますが、光を通すように透明なので血管がありません。酸素や栄養は涙と空気を通して供給されています。このため、長時間ガラスで覆ってしまうと目が痛くなるので、登場したばかりのコンタクトレンズは長時間の着用が不可能で、我慢しても数時間程度しかつけていられませんでした。
それでも、婚活中パーティの間だけつけていられれば良かったので、美容の為なら命もいらない人たちの間では致命的な問題とは捉えられませんでした。
1890年9月を過ぎた頃、ドイツのベルリンに滞在していた一人のイギリス人医師が、コンタクトレンズと出会い眼科で儲けようと考えました、後にシャーロック・ホームズで世界的に有名になるコナン・ドイル先生です。
1891年1月には妻を連れてオーストリア首都ウィーンへ引っ越し、眼科外科の分野では欧州最高権威と呼ばれていたウィーン大学医学部(現在のウィーン医科大学)で6カ月の眼科外科実習を受け始めたのですが、ドイル先生はドイツ語があまり得意ではなかったのか、すぐに授業についていけなくなったのか2カ月で挫折して、イギリス・ロンドンに帰ってきました、
そして患者の来ない眼科病院で暇つぶしに描き始めた小説がシャーロック・ホームズです。
当時は現代のレーシック手術のように、コンタクトレンズをくれる眼科病院が欧州に乱立して、ドイル先生もその中に入ろうとしたけど、勉強についていけなかったのでコケてしまい、小説家になったのです。
ちなみに、当時のコンタクトレンズを処方する眼科医というのは、現代のコンタクトレンズを処方する眼科医とは難易度が桁違いに高く、患者の視力を測ったり目の形を計測したりして、レンズの屈折率とか光学系の計算を全部自分でやって、小さなガラス炉でガラスを溶かして、自分でガラス旋盤を回してレンズを自作しなければなりませんでした。
当時の眼科医にとって、「コンタクトレンズの処方=コンタクトレンズの自作」であり、眼科の勉強というより、レンズ職人の技術を学びにドイツへ留学していたというべきものでした。
ドイル先生が挫折したのは、ドイツ語ではなくガラス工芸じゃないかという気がしなくもありません。
この当時から昭和中期まで、コンタクトレンズは1セットで庶民の給料一カ月分ぐらいする高級品でした。古い漫画やアニメで、コンタクトレンズを落とした人が周囲の人まで手伝って探し回って踏んで割ってしまう……なんてコントを覚えている人は現代では少なくなったかもしれませんが、昔のコンタクトレンズはそれぐらいの高級品で、割ってしまったら眼科に行かないと新しいのが手に入らない代物だったからです。
原材料費が大したことないのを考えたら、1日に庶民の月給が何カ月分も入ってくるコンタクトレンズがおいしい商売だったのは、現代のレーシック手術と同じです。
よく、ヒットラーが美大に合格していたら第二次世界大戦は起きなかったという話がありますが、
ドイル先生がコンタクトレンズを自作できるようになっていたらシャーロック・ホームズは生まれなかったかもしれません。あるいは、ホルムグレーン博士のやらかしでコンタクトレンズブームが起きなかったら、ドイル先生が医師として道を踏み外すこともなく、ホームズが生まれなかった可能性もあったかも……。
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2024.10.02 20:00心霊コンタクトレンズが誕生した裏歴史を亜留間次郎が解説! 差別、偏見、魔女狩り、天皇、シャーロックホームズ…! のページです。コンタクトレンズ、眼鏡、マナー、シャーロック・ホームズ、コナン・ドイルなどの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで