「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」本当にあった愛人の怖い話! 父の美しい愛人、狂いゆく母…怪談『水の女』!
今まで熟睡していたのだと悟ると同時に、運転席から《愛人》が消えていることと、やけに静かなことに驚いた。
《愛人》の残り香を嗅ぎながら、何か、異常なことが起きていると悟った。
その途端、窓の外で、景色が斜めに傾いだ。
と、思ったら、半ば開いた窓のガラスを、半透明の緑色をした水が洗いはじめた。遠くに木の桟橋が見え、自分からそこまでの間を煌めく水面が埋めている。
小舟と化して揺れる車の中で、混乱しながら周りを見回すと、前後左右を水に囲まれていて、はっきりと目視できる岸辺は、あの桟橋のある辺りだけなのだった。
たちまち胃袋が喉元までせりあがってきた。吐き気をこらえて、シートベルトを外そうとしたが、手が震えてロック解除がままならない。その間にも、水位が上がってきた。
助手席の窓は真ん中近くまで開いていた。窓を開けたときのことを思い出した。山道で、流れ込んできた風が涼しく、緑の匂いが芳しかった……。
知美さんは幸いにして痩せっぽちで小柄な少女だった。体をくねらせて、シートベルトから抜け出し、開いた窓の隙間に頭から突っ込むと、外に這い出ることができた。水の中に飛び込み、泳ぎは得意ではなかったが、死に物ぐるいで桟橋を目指した。
途中何度も力が尽きかけたけれど、本能に導かれて、とうとう桟橋に辿りついた。するとそこへ、顔をくしゃくしゃに歪めながら《愛人》が駆け寄ってきて、バスタオルで体をくるんでくれた。
――その辺りから2、3時間分、記憶が途切れ途切れになっていて、帰宅するまでのことは断片的にしか思い出せないのだと知美さんは言う。
《愛人》と、バスやタクシーを使い、最後は徒歩で、家に帰ったこと。
「パパとママには、内緒にして。おまえが勝手に家から抜け出したことがわかったら、パパとママの仲がもっと悪くなるよ」と脅されたこと。
そして、帰る道々、《愛人》が「アリラン、アリラン」と鼻歌を歌っていたこと。
憶えているのは、それだけ……。
それから1ヶ月ほど経った、夏休み後半のある日、父が珍しく真っ昼間に帰宅して、母が留守にしていることを確かめると、何も言わずに母の貴金属類やブランド物のハンドバッグを家中から搔き集めだした。
知美さんは叱られるのが恐くて何も言えず、ただ、おろおろするばかりだったが、少しして、玄関に《愛人》が突っ立っていることに気がついた。
そちらの方から例の甘い香りがする、と、思って振り向いたらそこに《愛人》がいたのである。
「……アリラン、アリラン、アラリヨ……アリラン ゴゲロ ノモガンダ……」
彼女は前後にゆらゆらと体を揺らしながら、ほとんど吐息だけのような小さな声で歌っていた。
尋常なようすではないと感じ、思わず呆然と見つめていると、そこへ父がスーツケースを抱えてきた。
「どけ」と知美さんにだけ言って、玄関から出ていく。
そこでは彼の《愛人》が歌いながら体を揺すっているのだが、その姿が視界に入っているとは思えない態度だった。
知美さんは、父が《愛人》を突き転ばすことを予想した。
しかし、そうはならなかった。
父が出ていった後も、《愛人》は玄関にそのまま立っていた。
「ナル ボリゴ ガシヌン ニムン シムニド モッ ガソ バルビョンナンダ……」
――アリラン峠を越えて行く。私を捨てて行かれる方は十里も行かず足が痛む。
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