米軍UFO調査機関「プロジェクト・サイン」とフォート・モンマスUFO事件=羽仁礼

――「超常現象」分野に深い造詣を持つオカルト研究家・羽仁礼が歴史的UFO事件を深堀り。アーノルド事件からCBA事件までを振り返る。

米軍UFO調査機関「プロジェクト・サイン」とフォート・モンマスUFO事件=羽仁礼の画像1
画像は「Getty Images」より

 1951年、アメリカでは1月20日のローレンス・ヴィンサー機長の目撃事件が起こり、8月にはテキサス州ラボック周辺でラボック・ライトと呼ばれる光体群が目撃されるなど、いくつものUFO事件が発生しているが、9月10日のフォート・モンマス事件は、それまでのアメリカ空軍のUFOに対する態度を一変させた画期的な事件である。

 アーノルド事件の発生した1947年には、他に何件もUFO事件が相次ぎ、その年の年末、アメリカ空軍はオハイオ州デイトンにあるライトフィールド空軍基地に常設の研究チームを設けた。この機関にはプロジェクト・サインというコードネームが与えられ、組織上は基地内の航空資材司令部情報課(AML)の傘下に置かれた。

 ライトフィールド空軍基地はその後隣のパターソン空軍基地と統合され、ライトパターソン空軍基地となったが、アメリカ空軍のUFO研究機関は引き続きこの基地に置かれた。

 プロジェクト・サインが設立された当初は、UFOを地球外からの宇宙船と考える者たちが内部に大勢おり、彼らはまず1948年8月に「状況判断報告書」なるものを提出した。そこには「円盤は他の惑星から来た宇宙船の可能性がある」旨記されていたようだが、当時の空軍参謀長ホイト・S・バンデンバーグ大将(1899~1954)はその内容を不適切と判断し、再調査を命じた。その結果内部では肯定派と懐疑派の対立が生じ、1949年2月に提出された最終報告書は、UFOは存在も否定もできないというどっちつかずの内容となった。

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画像は「Wikipedia」より

 その直後、UFOを地球外起源と考えるスタッフは配置転換され、プロジェクトの名前もプロジェクト・グラッジに変更された。

「グラッジ(grudge)」とは、英語で「恨み」を意味する言葉だ。一連のスタッフの交替や名称の変更は、アメリカ空軍上層部に渦巻く反UFO感情を反映したものと言える。当然ながら新プロジェクトの活動もそうした雰囲気に影響され、低調となった。

 上層部から明確な指示があったわけではないが、内部ではUFOなど存在しない、という方向性が貫かれ、また縮小された人員では厖大なUFO情報を精査することもできなかった。

 こうして1949年末に提出された最終報告書は、UFOはすべて集団ヒステリーやいたずら、既知の物体の誤認で説明できるという内容になっていた。

 この最終報告書提出時に、プロジェクト・グラッジは閉鎖されるという報道もなされたが、実際にはその後も規模を縮小して継続していた。しかしその活動は、単に報告を集めてファイルするだけの活動になっていたようだ。

 そうした時期に起こったのがフォート・モンマス事件だった。

 1952年9月10日、この日、ニュージャージー州フォート・モンマスにある陸軍通信隊レーダー・センターには軍の高級将校が何人も訪れ、レーダー操作の現場を見学していた。

 実演していたのはレーダー操作の研修生だった。ところが午前11時10分、この研修生はレーダー・スクリーン上に、基地の南東1000メートルほどの位置を、低空で北方に移動する物体を捕捉した。レーダーは目標物を自動的に追尾できるようになっていたが、その物体はあまりに速度が速くて自動追尾が追いつかなかった。そこで研修生は追尾を手動に切り替え、何度か物体を見失いながらも3分ほど追尾した。最後に物体は、時速1100キロほどの高速で北東方面に姿を消した。

 しかし、謎の飛行物体はその25分後、今度は肉眼で目撃された。

 このときウィルバート・ロジャーズ中尉は、T-33練習機を操縦してニュージャージー州ポイントプリーザント上空、高度12000メートルを飛行中であった。練習機には、エドワード・バラード大佐も同乗していた。

 そこで練習機の下方、高度1500メートルから2400メートルと思われる位置に、戦闘機ほどの大きさで、丸い銀色の飛行物体を目撃したのだ。

 ロジャーズ中尉はただちに左旋回して高度を下げ、しばらく平行に進んだが、物体は時速1460キロほどの高速で飛行していたため見失ってしまった。

 翌日、9月11日午前10時50分にも、二つのレーダーが、自動追尾できないほど早く動く物体を捕らえた。それは異常に強い反射と速度で動いており、時速1600キロで移動していた。

 さらに午後1時半には、別のターゲットがレーダーに現れた。

 レーダー・スクリーンから見る限りでは、物体は900メートルほど離れた場所にいたので、操作員は目視でも確認しようと建物から出てみたが、雲がかかっていたため見えなかった。

 レーダー画面では、物体は速度を上げて上昇し、自動追尾できないほどの速度で南に移動した。操作員は手動追尾に切り替え、物体が時速1100キロ以上で移動していることを確認した。

【羽仁礼UFO史連載】
第1回:UFO史を紐解くー「ケネス・アーノルド事件」(1) 
第2回:UFO史を紐解くー「ケネス・アーノルド事件」(2)
第3回:UFO史を紐解くーケネス・アーノルド事件以前の目撃例(1)
第4回:UFO史を紐解くーケネス・アーノルド事件以前の目撃例(2)
第5回:日本UFO研究事始めー「宇宙機」とその時代(1)
第6回:日本UFO研究事始めー「宇宙機」とその時代(2)
第7回:戦前に設計された円盤形航空機「ディスコプター」とは?
第8回:UFO=宇宙人の乗り物説は日本発祥だった!?
第9回:UFO研究の先駆者ドナルド・キーホー概説
第10回:1897年「オーロラ事件」は世界初のUFO墜落事件なのか?
第11回:謎に包まれた「アズテック事件」を解説(1)
第12回:謎に包まれた「アズテック事件」を解説(2)
第13回:昭和25年の「空とぶ円盤」事情
第14回:ナチスのUFO開発史ールーマニアの発明家アンリ・コアンダ(1)
第15回:ナチスのUFO開発史ーフリーメーソンの技術者ベッルッツォ(2)
第16回:ナチスのUFO開発史ー円盤型航空機「V-7」は完成していた!?(3)
第17回:ナチスのUFO開発史ー円盤型航空機と南米ネオナチ思想の中心人物(4)
第18回:科学知識を総動員した「世界最高のUFO研究書」

文=羽仁礼

一般社団法人潜在科学研究所主任研究員、ASIOS創設会員、 TOCANA上席研究員、ノンフィクション作家、占星術研究家、 中東研究家、元外交官。著書に『図解 UFO (F‐Files No.14)』(新紀元社、桜井 慎太郎名義)、『世界のオカルト遺産 調べてきました』(彩図社、松岡信宏名義)ほか多数。
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