実在した『ベルばら』のオスカル的な英雄を亜留間次郎が解説! アメリカ独立戦争の雄、カジミール・プラスキ将軍は男装の麗人だった!?
プラスキ将軍の出生に関しても、詳しい歴史資料が残っていません。
生まれ育ったポーランドはロシアに侵略されて多くのものが失われた上に、第二次世界大戦でドイツ軍が焦土になるまで完全に破壊しつくしたため、多くの資料が失われてしまっているのです。
さらに、出自に関する資料が乏しいために、アメリカで英雄として神格化されてからは経歴妄想が活発に行われ、ワルシャワ名門校卒だったことにされたりと、青年期の資料はどこまで事実なのか妄想なのか分からなくなってしまっています。少なくとも、アメリカ独立戦争当時の年齢が29~31歳だったと言われているので、ポーランドで高等学校へ進学したとは年齢的に考えられません。
生年月日にも諸説あり、1746年3月4日あるいは3月6日生まれ説もあります。ポーランドの田舎のヴィニャルィ村の領主だった下級貴族の生まれとされていますが、この村は1830年代に要塞建設の為に地元住民が全て強制移住されられて消滅したために、出身地には何も残っていなければ親族も全員行方不明です。
1762年ごろ、ポーランド王国クールラント公国のクールラント公爵家の嫡男カール・フォン・ザクセンの専属使用人として働いていたという記録が残っています。働き始めた当時の推定年齢は16歳前後だったと思われます。
その後しばらくして、ロシア帝国の侵略によりクールラント公爵家は領地を追われ、全ての財産を失いました。当主はドイツのザクセンへ落ち延びて余生を送り、そのまま天寿を全うすると公爵家は消滅して現代にいたります。
プラスキ将軍はポーランド貴族が集まり結成したバール連盟の一員となり、騎兵として活躍します。奮闘むなしく戦いには敗れ、1772年の第一次ポーランド分割により戦争は終わります。その後フランス経由でアメリカへ渡ったといわれ、1777年にはアメリカにいたことが確認されています。
■当時の貴族制度について
さて、次期クールラント公爵になるはずだった嫡男のカールは、1760年3月21日にフランチシュカ・クラシンスカという下級貴族の娘と秘密結婚しています。その後、1775年6月に貴賤結婚の例外として公認され、フランチシュカは正式に公爵夫人になっています。
身分違いの恋の末に結婚したわけですが、実質的に公爵家が全ての領地と権力を失い、親戚の家に居候している名前だけの存在になってしまった時期の出来事です。悪い言い方をすれば、名前だけの公爵で何の実権も領地も持たないニートだし、復権もお家存続も無理そうだから、もう好きにして良いと言われただけかもしれません。
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2024.10.02 20:00心霊実在した『ベルばら』のオスカル的な英雄を亜留間次郎が解説! アメリカ独立戦争の雄、カジミール・プラスキ将軍は男装の麗人だった!?のページです。米国、ポーランド、カジミール・プラスキ、米国独立戦争、騎兵などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで