人形の手紙に隠された「暗号」の真実。第二次大戦中、唯一日本のために動いたアメリカ人女性スパイ「ドール・ウーマン」

第二次世界大戦中、日本のためにアメリカ国内でスパイをしていた唯一のアメリカ人とは――。その人物とは人形店の女店主だったことから「ドール・ウーマン」という通称でも知られるベルバレー・ディッキンソンである。
■日本のスパイになった米国人女性
第二次世界大戦中に活躍した有名なスパイが何人かいる。たとえばココ・シャネルはファッションデザイナーであると同時にナチスドイツの諜報員でもあった。芸能人のジョセフィン・ベーカーはフランス滞在中に枢軸国をスパイしていた。
日本のために連合国をスパイしていた唯一のアメリカ人、ベルバレー・ディッキンソンはカリフォルニア州サクラメント生まれで、1918年にスタンフォード大学に入学したが学位は取得していない。
ディッキンソンは1920年代後半から1930年代初頭にかけて、銀行、証券会社、そして社会福祉関係の職に就き、この時期に 3人目の夫となるリー・テリー・ディッキンソンと出会った。夫と共にニューヨークに移住後まもなく、ディッキンソンは市内のデパートで人形販売の仕事に就き、最終的に自分で人形店の経営者となり、夫は会計などを担当し夫婦で店を切り盛りすることになる。

ディッキンソン夫妻は人形ビジネスで功を奏し、全米(おそらくは世界中)の裕福な顧客を抱えていた。
夫のリーは健康状態が悪かったが、妻は「仕事と遊びで毎年少なくとも一度はカリフォルニアを訪れていた」とFBIの記録には記されている。ディッキンソン夫妻は1942年にも何度か一緒に旅行し、オレゴン州、カリフォルニア州、ワシントン州の都市を訪れている。
生まれ故郷であるカリフォルニア滞在中に日本文化に興味を持ち、日本人コミュニティと交流がはじまったといわれている。
1943年3月にリーが亡くなった後も、ディッキンソンはニューヨークに留まり、日本協会に入会し、1905年に「日本人コミュニティの結束を強め、アメリカ国民とのより良い関係を築く」ために設立された私設団体「日本クラブ」で多くの時間を過ごしたと伝えられている。
ディッキンソンはこの時期から日本のためのスパイ活動に従事することになったようだ。
アメリカが第二次世界大戦に参戦した時期から、国内では郵便物などに対する厳格な検閲が行われるようになっていた。
国内からアルゼンチンへ宛てられた郵便物は重点的な監視対象であり、実際は当局が不達扱いにして差出人へ返送していたケースが多かったという。
その時期、アメリカ国内の5人の人形愛好家に返送されたアルゼンチン宛の手紙があった。

この5人の人形愛好家に共通していたのは、5人共にディッキンソンの人形店との接点があることと、5人全員がそもそも返送された手紙を書いて送ってはいなかったことだ。
あまりにも不審であるため、5人のうちの2人が当局に通報したことで、ディッキンソンに嫌疑かかけられることになった。
手紙の内容は差出人の趣味や生活を物語るもので、いずれも緊急性のない他愛のない内容であった。
たとえば手紙の1つに次のような記述がある。
「新しい人形は、愛らしいアイルランド人形3体だけです。そのうちの1体は、背中に網を背負った年老いた漁師の人形です。ショー氏に会いに行ったのですが、彼はあなたの手紙を破り捨ててしまいました。ご存知の通り、彼は病気だったんです」
「網を持った老漁師」とは対潜網を備えた航空母艦のことで、謎の「ミスター・ショー」とは、実は真珠湾攻撃で損傷を受けた駆逐艦「USSショー」の符丁であることが判明している。ディッキンソンはこの軍事情報をサンフランシスコ滞在中に収集していたのだ。

ディッキンソンはそうした情報をアナグラムで暗号化したとりとめのない内容の手紙にして、アルゼンチンの日本軍に通じた拠点に送っていたのである。
1944年1月21日、じゅうぶんな証拠を得たFBIは彼女を逮捕した。逮捕後にわかったことは、ニューヨークのディッキンソン人形店は、彼女のスパイ活動のおかげで営業を続けられていたことだ。
FBIはディッキンソンが借りていた貸金庫から1万5000ドルもの現金を発見したが、紙幣の出所は日本領事館を含む日本に関係したルートであった。ニューヨークの日本海軍監察官事務所も、この現金の一部と明確に関連していた。
ディッキンソンは検閲違反で有罪判決を受けたが、スパイ行為では有罪判決を受けず、最終的に懲役10年と罰金1万ドルの判決が下った。
ディッキンソンは7年間刑務所に服役し、後にケネディ家の慈善家、ユーニス・ケネディ・シュライバーのもとで働いた。裁判記録によると、ディッキンソンの罰金は1946年に支払われたが、支払者の氏名は不明である。ユーニスが払っていたとしても不自然ではないのだろう。

当時キャサリン・ディッキンソンと名乗っていたディッキンソンは、仮釈放が解除されると、いくつかの役職に就き、当時長官だったユーニスの事務補佐官も務めた。ユーニスは後に、ディッキンソンを「素晴らしい秘書だった」と評している。
有能であったディッキンソンはどこで道を間違えたのか。社会人として初期の頃に安定した働き方ができなかったことが尾を引いているようにも思えるが、元凶はやはり戦争のせいだとも言えなくもないのだろう。戦争がなければ日本文化をアメリカに紹介する役割も担え得ただけに残念な限りだ。
参考:「Ranker」ほか
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2024.10.02 20:00心霊人形の手紙に隠された「暗号」の真実。第二次大戦中、唯一日本のために動いたアメリカ人女性スパイ「ドール・ウーマン」のページです。ニューヨーク、太平洋戦争、スパイ、暗号などの最新ニュースは好奇心を刺激するオカルトニュースメディア、TOCANAで


