目覚めたら机に「解いた覚えのない方程式」量子物理学者が挑む”並行世界の自分”通信説

朝、目を覚ますと机の上に一枚の紙が置かれていた。書かれているのは、自分が一度も取り組んだ記憶のない、それでいて完璧に正しい数式だったとしたら――。
そんな思考実験が、量子物理学の世界でひそかな波紋を広げている。多世界解釈において「決して交わらない」とされてきた並行世界同士が、実は情報をやり取りできるかもしれないというのだ。もし本当なら、勉強せずに満点を取ったり、株式市場で荒稼ぎしたりすることさえ理論上は不可能ではなくなるという。
「解いた覚えのない方程式」が突きつける、多世界解釈への挑戦
出どころは、量子物理学者マリア・ヴィオラリス博士が今年1月に投稿した未査読論文だ。量子力学の長年の常識に一石を投じ、注目を集めている。
多世界解釈では、量子的な出来事のたびに現実が枝分かれし、それぞれが独立した世界を生むとされてきた。「枝同士は絶対に情報をやり取りできない」というこの前提は、いわば物理学の聖域だ。ヴィオラリス博士は、この聖域そのものに疑問を投げかけている。
記憶を消すことが交信の条件――「ウィグナーの友人」実験の抜け道
博士が用いるのは「ウィグナーの友人」と呼ばれる思考実験だ。同じ観測者の枝分かれ後のコピーを「エージェントA」「B」とし、外側に立つ管理者「ウィグナー」が両者の量子状態を丸ごと操作できるとする。管理者が量子状態を巧みに操作すれば、片方の世界で書かれたメッセージをもう片方へ渡せるというのが博士の主張だ。
ただし重い条件が付く。メッセージを書いた本人は、書いた記憶を完全に失わなければならない。博士自身も繰り返し強調する最大の癖だ。さらに管理者役には神がかった操作能力が要り、当事者も本物の量子的重ね合わせ状態になければならない。人間サイズの系では自然には起こらない条件である。
こうした前提が揃うと、話は物理学から哲学へ滑り込む。博士自身、この切り替えは「一方の観測者をもう一方に置き換える過程」とも解釈できると認めており、通信と人格の入れ替えの境界は曖昧だという。
「それは通信ではなく人格の入れ替えだ」専門家の異論
この曖昧さに異を唱えるのが、テキサス大学オースティン校の理論計算機科学者スコット・アーロンソン博士だ。実際に起きているのは情報の伝達ではなく、単に二人の観測者の人格が入れ替わっただけだと博士は指摘する。想定される「神がかった支配力」を踏まえれば実用性はほぼなく、せいぜい人格の本質をめぐる哲学的議論の種になる程度だとも述べる。
一方、未来学者アレクセイ・トゥルチン氏は「マルチバース裁定取引」という構想を提唱し、物理学者ライナー・プラガが示した、孤立させたトラップイオンを枝分かれ間の一度きりの「出入口」とする案と並べて論じる。実現すれば高頻度取引で莫大な利益を得られるとしつつも、トゥルチン氏自身、この枠組みで送れる有用な情報はごくわずかだと認める。
ヴィオラリス博士も、都合よい未来を思い描く余地はほとんどないと釘を刺す。メッセージのやり取りは管理者役が仲介するが、その管理者は中身を知らず、当事者も伝達過程を制御できない非対称な仕組みだからだ。
そもそも、そうした管理者役を私たちはまだ持たない。唯一想像できる接近法は、観測者を再現できる量子コンピューターと汎用人工知能(AGI)の組み合わせで、今後10〜20年での実現に博士は慎重ながら楽観的だ。ただし並行世界の自分と会話することとは程遠く、意識に近い何かを備えたAIの実現には「大きなブレークスルーが必要」とも認めている。
当面、宝くじの当選番号が宇宙を越えて流れてくることも、明日の見出しをもう一人の自分がささやいてくれることもなさそうだ。それでも、あの机の上の一枚の紙――誰も解いた覚えのない、それでも正しい方程式――という光景は、想像するだけで胸をざわつかせる。
並行世界のもう一人の自分が、今この瞬間もこちらへ何かを送ろうとしているのかもしれないと考えたくなる人は、きっと少なくないはずだ。
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